HistoryとEducateのループ性1
私(myself)は私以外(not myself)の第三者やモノ・現象さまざまなものとやりとりをしていることを自覚する。私が私以外と産霊をもつとき、私が対象へ反応を示して意識を投げかければ、その対象は私自身の想像できる範囲(一種のP.C)を超えたものとして跳ね返す。キャッチボールをした時に、相手より少し遠くに投げると、それを懸命にキャッチした相手は次は私の少し遠くへ投げる。二人の距離がだんだんと遠くなっていく。やがて自分の遠投力の限界になったとき、友人を使ってでも届けようとする。産霊のイメージは、こうした渦のような広がりである。投げる行為という身体的供与は、「純粋な贈与交換」や「思いやり」という何時も乍らな認識とは少し異なる。むしろ遊びに近いこの感覚によって、想像を少しだけ超えればそれでいいのである。
キャッチボールはいつもふざけあい 洒落の座布団が飛び交って ふたりの巫山はどんどん大きくなる
(13.03-01)
HistoryとEducateのループ性2
P.Cの渦は、環境、事件、歴史の種類・特性などさまざまな要因によって、増幅される場合もあれば、減衰される場合もある。
(13.03-02)
HistoryとEducateのループ性3
産霊の対象が人ではなく事物や現象の場合、自覚的なP.Cを持たないがゆえに渦はアンバランスになる。しかし、私自身のP.Cの更新を継続させれば、渦は対人と同じように大きい弧を描くはずである。
壁にむかってボールを投げる少年は、その跳ね返った軌道によって自分の球威に気づく。ボールが壁に当たった瞬間、少年は捕球者となる。だから、少年はその捕球者のことを思って投球するし、捕球者もまた少しずつ難易度の高いボールを投球者に要求する。少年の立ち位置は変化し続ける。
(13.03-03)
AmplifyとAttenuate
増幅や減衰といった基本回路では、トランジスタはノイズの影響を大きく受ける。
このとき科学では、しばしばこのようなノイズを極力抑えることを考える。ノイズキャンセルに力を注ぎ、技術の結集を行う。基本回路には複雑なオプションがつき、改良されてノイズの影響を防ぐ。
私たちは、自然現象や歴史、思想、文化などのあらゆるもののノイズはキャンセルできないものとして認識したい。電気回路のように、ノイズの検知については十分に目をこらすけれども、そのノイズはノイズのままノイズを増幅させて出力させたいのだ。ここに示した増幅・減衰の基本回路は、私たちの考えるノイズへの認識の記号的表現のひとつである。
邪魔
(13.03-04)
巨大な文化ループとの接点1
P.CとP.O.Cの交渉は、巨大な文化ループともまた行われる。
(13.03-05)
巨大な文化ループとの接点2
巨大な文化ループは膨大な時間によって形成されており、私たちの暮らしのあちこちにその断片がある場合がある。
従ってその接点は多く、例え物理的・精神的に離れたコミュニティ間いおいても、その巨大なループを介し共有することで繋がりが生まれる。
ときどき、ある条件の下で、文化ループを介さず別のキーワードによって直接的に繋がる場合もある。その場合、何らかのエネルギーが起こっている。
それは、不安定な電子状態である分子が、あるきっかけによって電子が飛び出し別の分子の正孔へと飛び出していくのと近い。
私たちは常に不安定な状態にあることで、たとえ巨大なループを目の前に過ごしていても、それを飛び越えた電子移動のようなコミュニティを持つことがあるのである。
また、この電子移動の間にノイズによって原型とは異なるものとなることも多くある。しかし、そのノイズこそが文化の広がりに大きなきっかけを与える可能性を秘めているのである。
巨大な文化ループは膨大な時間によって形成されており、その断片は私たちの暮らしのあちこちにある。
従ってその接点は多く、例え物理的・精神的に離れたコミュニティ間いおいても、その巨大なループを介し共有することで繋がりが生まれる。
ときには、文化ループを介さずとも別のキーワードによって直接結びつく。不安定であればあるほど、偶有性を多く含む。
不安定な状態は、突拍子もない場所と思いもしない経験を与えるきっかけとなる。
木から今にも落ちそうな最外殻電子 ゆらゆらゆらゆら揺れていて たどり着いた地面には 聞いたこともない地名がついている
(13.03-06)
巨大な文化ループとの接点3
既存のループの渦と私たちはそれぞれの個性を以てして関わることになる。
たとえ既存のループの渦が巨大なものであったとしても、その軌跡を動かそうと試みるのである。
そのベクトルとタイミングが同じであれば大きな力となるが、必ずしもそうなるとは限らない。また、同調を促しても動かすフリをする者もまたいるだろう。
(13.03-07)
複雑系とYOSUGA軸
中枢神経は、感受貯蔵庫でありPOCとのムスビ発見する為のトポスである。
中枢神経に、しっかりと括り付けて放物すれば全体のアウトラインを形作る最外域の軌道と中心を貫く軸の関係性が途切れることはない。
たとえば、フラクタルのように全体を構成するミニマムが存在することがあっても、それは全体を把握したこととはまた別の問題である。
(13.06-12)
産霊間隔
ユクスキュルが言う「TON:意味」が、さまざまなモノ・事象に対して、固有の体験から得たイメージを与えることだとすれば、中枢神経は産霊という体験によってモノ・事象に与えたイメージを蓄積していく器官である。
(13.06-13)
YOSUGA軸の引力1
お互いが相思をして、思想や感受性を分かち合えば、そこには「あいだ」が起こる。
それはまた、私でもなくあなたでもない「公共」である。
(13.06-14)
YOSUGA軸の引力2
公共にはいつも影響力が備わっている。
(13.06-15)
YOSUGAのプラズマ
瞑想のような「影響力」の圏外に身を置く行為は、プラズマを誘因する。
(13.07-08)
巨大な文化ループとの接点4
既存のループとどのように関わり、どう影響を与えるか。
引っ張り、ずらすだけ(pull)であれば、エネルギーはさほど必要ない。そのときの影響力も大きくはならない(上段図)。
綱を持ち、上げ下げしさらに重力の影響も加えて角度を変えようとすれば(pull + g)、それなりのエネルギーが必要となる。影響力も少なからず出てくる(中段図)。
綱をねじ曲げ、波打たせる(twist)をすれば、既存のループに与える影響は非常に大きくなる。しかしそれには多大なエネルギーが必要となる(下段図)。
(13.03-08)
産霊の限定性
家族や付き合うことは、産霊の限定的な場面のひとつである。
(13.10-01)
産霊の時間経過と欠損
時間経過によってもまた、産霊の限定的な場面は現れる。
積み重ねた産霊に対する想いの問題は、その時になって表沙汰となる。
(13.10-02)
人と人とのループの接点
人と人とが産霊を持つとき、その空間にはそれぞれのP.Cが持ち寄られ、P.O.Cは相手のP.Cによっても生み出されていることになる。
そして、それぞれのP.Cは産霊を繰り返していく。
(13.03-09)
産霊(ムスビ)
産霊を持ったとき、それには色がつき、匂いや音があり、感触が残る。鎖のように接続された空間は、産霊による五感で溢れている。
ここに流れている川は、川と呼んで把握できるものではなくて、学校の帰り道にずっと蹴り続けていた石が落ちたのでそれを拾うために手を入れ思ったよりも冷たくて少し手が縮むような気持ちと水面にまで顔を近づけたその刹那手に少しだけ触れて流れ去っていったウグイの感触と石を拾い上げたとき空の高さと同じくらいになっていたさっきまで歩いていた道路の高さを知った川、なのだけれども、だとすればもう一度ウグイを感触しなければその川は川ではないのだろうか。
(13.03-10)
P.Cの密度と産霊1
ある空間に存在する渦の数(P.O.Cの数とも言える)によって、当然産霊の絶対数は影響する。渦が増えれば増えるほど、それらの接触機会は増大する。さらに、当事者間の産霊は、第三者へのノイズとしての影響も生じることとなる。ノイズには偶発的な性質を現象を思想を生む可能性が秘められている。密度の高い状態においては、身の回りにある「手近な」渦を超えていく動きは少なくなり、あるいは多くの渦に鎖のように結合されて、ゆえに前者はその刺激の少なさから、後者はそのしがらみの複雑さから、空間中に散らばっているたくさんの渦の存在をつい忘れてしまう。
(13.04-01)
P.Cの密度と産霊2
周囲と固く結合された状態においては、自らのエネルギーや可能性もその結合力に注がれてしまう。そこに対抗するためには、常に最外殻の不安定な電子を持ち続ける意識が必要になる。
(13.04-02)
重さをもつループ
ループは、産霊の絶対数に深く関与し、社会的な影響力の広がりにつながっていく。
(13.04-03)
産霊の連続性とフィボナッチ
ループは様々なP.CとP.O.Cのやりとりつまり産霊の連続によって螺旋を描くようになる。そして産霊が第三者へと次から次へと広がっていくとき、フィボナッチの黄金比のような美しさをともなう可能性を秘めている。
(13.04-04)
P.C ⊃.⊂ P.O.Cの深さ
産霊は、体験し、思考して、感じることによってより深部を把握できるようになる。自身のひとつの体験を大切にして、その一点について思考し続け、感受し続けて、書き留め続けることが必要になってくる。
(13.04-05)
複数のP.CとP.O.C1
P.O.Cとのやりとりにおいては個人差がある。その深度は多様であり、絶対的な「最適な深度」というものはない。「血縁」の深度が過剰すぎる場合もあれば、「まだ見ぬ縁」が最も理想な場合もある。
(13.04-06)
複数のP.CとP.O.C2
複数でひとつのP.O.Cとのやりとりを行うとき、そこには重層的な濃度関係がうまれる。
(13.04-07)
縁の道
ループの軌跡は、連続する縁の道である。軌跡は定まった曲線を描くわけではなく、さまざまなノイズを包含し、さまざまな状況とそこでの縁によって描かれていく。それはまるで地理的な条件に左右されながら蛇行する河川や山頂への道である。その軌跡には膨大な背景とそれに伴う「意味」を含んでいて、その地の流れ、水の流れを常に注意深く観察することが、学問の重要な要素である。
(13.04-08)
ループのズレと産霊
緩やかな傾斜の縁の道(YOSUGA)を歩くとき、そこには歴史の地層が堆積している。
(13.04-09)
ループのズレと文化の地層化
地層は、その大小はあるものの、グラデーションを描いている。グラデーションという色のズレは歴史的変遷と判断されて、そのズレの比較は文化としてしばしば把握される。それは一般的な学問としても対象になるところである。ただ、私たちが重視するのは、学問的に論じられた「結果」よりも、「地層を見る」行為そのものと、その縁を想うことである。私たちはそれを「御縁想」ということばによって力を込める。
(13.04-10)
縁の道と産霊
YOSUGAの道幅は、ムスビの数によって変化する。
(13.04-11)
寄す処
?御縁想
?寄す処の創造
?無意識に縁の道をあるく
??縁の道への出入
(13.04-12)
縁の道(YOSUGA)と集う場所としての寄す処
御縁想とは、地層(縁)を見て、結晶の欠片を拾い集めていくことである。その欠片はやがて寄す処という結晶を生み出し、寄す処には、人が集いはじめるだろう。
そこに集った人たちもまた、それぞれの御縁想によって、それぞれの結晶を作り出していく。それは学ぶ(真似ぶ)行為といえる。真似ぶ行為を通して、結晶を鏡にして自分を映しだすように、継続的に自分に問いかけること、それが学問であると考える。
(13.05-01)
会話とその意識
例えば本居宣長は、日々古事記に向き合い御縁想を繰り返すことによって、ある日間近で体験した伊勢の遷宮の中に、古代の世界を誰よりも感動的に深く刻み込んだと思う。より古い地層であっても、自らの御縁想によって地表表面までもってくることができるのである。
(13.05-12)
人称について
私が、主体(第一人称)として体感したとき、五感すべてが関わることになる。私が目の前にいるあなた(第二人称)の体感を目の当たりにしたときは、味覚以外の感覚は大凡共有することができ、同様に彼ら(第三人称)であった場合は、聴覚・視覚・嗅覚などによって共有がすることとなる。しかし、私の感覚や想像は距離に比例して弱くなっていく。私はあなたや彼らを鏡(特別第一人称)と捉え、私を考え想うことが人称的五感の表すところである。
(13.05-13)
特別第一人称的わたし
私を見るようにあなたを見る あなたを見るように私をみる
私にするようにあなたにする あなたにするように私にする
多少のうしろめたさを含む「贈与」とも言いがたい、より対自然的で純粋的な「鏡感」は、一人称である私が重層的に投影される「特別一人称的」な私を浮かび上がらせる。しばしば日本語に見られる人称認識の曖昧さやその転化も、「鏡感」に関わるものなのではないだろうか。
子どもの頃に日常的だった「遊び」は「鏡感」で溢れている。大人には認識しえない別の空間・規則が存在する「遊び」の感覚に対して注視していきたい。
(13.06-02)
鏡感と万華鏡とYOSUGA
毎日の万華鏡は回転する。もし緩やかに万華鏡を止めて、あなたによって反射してみえる私に目を向ければ、そこにはフラクタルが現れる。
(13.06-03)
五感と記憶と鏡感
夢と現を往来すること 時はうつろぎ 五感は混じり合って「無形の有」はイメージされる
(13.06-04)
活動と衝動
普段の行動をトポロジー的な視点でみたとき、「記録」は日々の生活の中で最も負荷のない行動といえるだろう。
日記や写真は無理なく、「忘れる/忘れない」という感情を背後に、衝動に近い形で継続されていく。
(13.09-04)
四態と世代継承1 四態図
掴み所がなくあるいはその存在を意識しないことが多い気体、気体の存在を示すかのような発声するものとしての液体、そして液体を留めるための手間・工夫・意匠・技術・名付・編纂といった、さまざまな固体化作業。飽和水蒸気量の上下は意識へ訴えかける。
世代継承は状態変化のように。
ときには、原子の束縛から離れたクーロン力によって、日常はあっというまに非日常を生みだしていく。
(13.06-05)
四態と世代継承2 網目膜空間
区切られた網目膜空間では、四態の特徴はそれぞれ反映される。内外を往来する気体、掬わない限りこぼれ落ちていく液体、その場に留まり評価を受ける固体、神となり鬼となるプラズマ。
(13.06-06)
四態と世代継承3 四態網目膜
世代継承は、テキストのように折り重なった網目のようである。
(13.06-07)
産霊とYOSUGA
「結晶」という言葉について考えたとき、その意味は、清らかな天体の光を表す「晶」を「結」ぶことであり、つまり「結晶」とは星座なのである。
産霊と産霊を次々と結んでいくことによってできる縁の道(YOSUGA)は、遠い遠い距離から見たとき、星座として私たちの目に映ることになる。私たちはそのとき、それを「物語」と感じるのである。同じ時間を共有しているからこそ物語は生まれる。また、同じような環境にいる人たちの中においても、各々の縁の道は多様性を帯びることとなり、無限の物語が生まれていく。
(13.05-02)
産霊とYOSUGA2
発声と会話によって体感する結晶は、結ばれた星座として立体的に形作られていく。
(13.05-03)
個人の一視点
既成概念 世論 常識
ゲル化しそうな空気を貫く個人の強い視線
(13.11-03)
視点(シニフィエからの解放)
物質のシニフィエは、いつでも解放されうる状態にある
組み合わせ 配置 アングル 加工 ズーム 折り重ね
(14.08-01)
視点(シニフィエの解放とプンクトゥム)
素材の配置は、多層のレイヤーをつくる。
そのレイヤーはシニフィエを解放するためのたくさんの入口、つまり小さな裂け目”を用意する。
この小さな裂け目の此岸と彼岸を行き来するとき、プンクトゥムは大きく目の前に開かれる。
素材は、生まれた頃から現在までのさまざまな意匠が顔を覗かせる。
(14.08-02)
メゾ視点
メゾとは、マクロとミクロの両極が存在するときにこそ生まれる空間である。
両極に大きく振ったとき、メゾには裂け目がうまれる。
メゾは単なる中間ではない。
マクロとミクロによって発見される、日常に身を置きながら異次元を体験する空間である。
メゾ視点は、その一つの方法論である。
(14.06-01)
御縁想1
私たちは御縁想の文脈においても、直感したり、じっくりと熟考を重ねたり、あるいは思考を記述・物質化・現象化したりする。
(13.05-04)
御縁想と直感1
つながり コンセプチュアル 御縁想 :思考
得心 アンフラマンス プラズマ :直感
思考と直感の前後関係は、当事者には捉えきれない。
(14.02-03)
御縁想2
自分の縁の道を思い描くことと感情は深く結びついている。つまり、現在の自分について知りたいときには御縁想をうまくすること、それは自分の内側へ向かっていく瞑想のような感覚が必要となってくるだろう。
(13.05-05)
言の葉
言の端(葉)は、物事の最初のきっかけや始まりの糸口である。「端」ではあっても、その物事の「端っこ」に位置づけられるのではなく、「端」は全体であり、時に中核をなし、また部分を構成する。
(13.06-01)
他者との産霊
リラックスした日常の会話には、強い主張や目的がなく、時には思ってもみないことを口走る。脈絡のない、形にならない、思いもよらない雑談。私たちはこの会話をもっとも重視する。発声による無意識なる思考の結晶化、それはほぼ偶然のような形で具象化する。しだいに倍音のように響き合い共鳴する。意味のないような糸を紐をとにかく張り巡らせていくと、あるとき紐帯となる瞬間が生まれるのである。私たちは嬉しくなる。自分の無意識との遭遇に。倍音が鳴り響く音楽に。美しいそのテキスタイルに。
(13.05-07)
三態のうち、液体と語り
大気のように私たちのまわりに存在している、具象化していない文化や思想は、日々の暮らしにおいてその存在を確認し続けることを基本的には必要としていない。しかし、私たちの先祖は、その大気の刹那的な状態を大切なものであると判断したときに、液化させ「固定」させてきた。現在にも残されている「物語」は、その液化させた液体といえるだろう。液化は、語りつづけることによって私たちそれぞれが暮らす一定の枠の中に留めようとする行為である。
(13.05-15)
三態のうち、液体と語り2
液化した物語は、時間経過によって時に枠外へこぼれ落ちていく。激しい圧力によってぽっかりと穴が開いてしまった網や、滴だけがぶら下がっている網。枠の網にはその痕跡を見つけることができる。
(13.05-16)
結晶と年月の経過
子どもの頃に出会ったP.O.Cの影響力は大きく、そこでの産霊は自身にとっては非常に大きなものになる。その当時はわずかな結晶かもしれないが、それは年月が経過した後に出来るさまざまな結晶のもととなるような大きな経験になる。また、年月の経過に比例して経験からくる結晶化の比重が大きくなる、つまり幾重にも弧を描いたループによるところが大きくなる。また、産霊は年齢相応の産霊の仕方がある。私たちも年齢による違いを風姿花伝のように意識していく。
(13.05-08)
結晶化と研磨、切りだし
結晶は、多様な研磨やそぎ落としの手段によって、反射率や屈折率の異なったものとなる。推敲を重ねて何度も何度も加筆修正を繰り返したり、詠い、語り、振舞ように研磨を続ける。
(13.05-09)
結晶の保存
結晶に名前をつけておくこと、すぐに取り出せるよう整理しアーカイブスしておくこと、整理しすぎずアーカイブスしておくこと、いつでも誰でも見れるようにしておくこと、一連の保存を記録しておくこと、その保存が継続可能な環境にしておくこと。エントロピーは増大していく。そのために結晶を残すためにはさまざまな工夫が必要となる。
(13.05-10)
産霊の結合と解体
産霊の結合力は安定しているわけではない。個人的に集められた収集物が、時代や世代が移り変わった途端忘れ去られ、捨て葬られることはごく一般的なことである。
(13.05-14)
御縁想と直感2
螺旋構造のような網膜構造のような思考と直感の関係は、決して整然とはしない。
しかし、次の直感のために触手を伸ばす先が、螺旋や網膜から生み出した自分たちの造形であることは何となく気配する。
(14.02-04)
傾きとプラズマ
トラックのインコースを、足の裏は白線で真っ白になりながら、体を大きく傾かせながら走り続ける。
その瞬間の微分値は、熱量や魅力として、まわりの人々の目に焼き付く。
プラズマという直感のようなある種の突き抜けを分析すると、得てしてとんでもない微分値を示しているものである。
(14.01-01)
プラズマの正体
直感というプラズマを理解するためには、
会話をして、思考をして、物を作り、世間を感じる時間が必要になる。
(14.01-02)
四態と世代継承4 相転移の臨界状態
相転移の臨界状態に目配せをして四態の循環を的確に判断する担い手が同朋衆である。また、オーロラと蛍光灯の相似形を証明することも重要な仕事である。
(13.06-08)
ものごとの発生とYOSUGA
熱量を放つことが何よりも先決である。人は明快な論理やただ美しい造形には集まることはない。触れてみたいけど、触れるのをためらうような、異次元的な熱量に対してのみ集まってくるものである。その熱量は、産霊をうみ、贈与や感情を生み、ものが生まれることに繋がっていく。
(13.05-11)
11.学問のストローと予想
細分化された現在の学問から覗きこんで見たとき、それは、細かな分野を深く追究することを可能とする。しかし一方で、それは私たちのコスモロジーのごく一部でしかない。かつての人々は自らの学問に対してもっと広大なコスモロジーを思い描いていた。細かく分断されたストローは、虫の目となり細部のディティールが表現できる「顕微鏡」となるものの、「万華鏡」としては、全体の一部の模様しか映しだされていないのである。いま、万華鏡として全体を眺めるために、大きな「予想」を立てることが大切なことになってくる。同朋衆たちによる「予想」によって狭小なストローに慣れてしまっている人たちに、より大きな万華鏡の世界を目の当たりにしてもらうのである。
(13.05-06)
自己学問と自他学問
学問のアプローチは、第三者との応答の連続によって有機的に拡張していくことにより可能性を秘めている。第三者との何気ない会話や情報の中には、自らの学問への重要な要素が潜んでいて、さらに自らの学問の拡張は、周辺の学問に対しても波のように伝播していく。こうした積み上げ/底上げする学問は、南方熊楠のような在地の森の中で独力で宇宙を創造していく姿とは対照的である。
(13.05-17)
自己学問の視点巡廻
自己学問では、その発端となる直感や出会いから今現在までの視点巡廻を繰り返すところに大きな学問としての魅力がある。その始まりはある種の脆さを孕んだスキマのある一つの点であり、途切れない視点巡回によって自己学問は膨張し確立されていく。
(13.07-07)
類似拾遺
隠喩・換喩・堤喩といった比喩表現は、産霊を繋ぎ合わせていくとき、部分と全体を結んでいくとき、いちいちの「拾遺」体系である。
(13.06-09)
隠喩
相似形を探すことは、「予想」を行うときにはなくてはならないものになる。
縮尺を超えた思考の旅である「予想」にとって隠喩は三次元的街道である。
(13.06-10)
堤喩
また部分で表現された全体は、ときに全体を表した全体よりも全体であることがある。「予想」においては、網羅された全体は見ることはできないのである。
(13.06-11)
智積
一枚ずつ積み上げていくこのドローイングという作業は、その継続によってやがて、”学問を創る”というトポスが水中から顔を出す。
水面に現れた一角は、独立や細分化、独創といったイメージで語られがちだが、水中は線形的な地盤としてしっかり続いている。
私たちが描いたドローイングは「智」という形で積み上げられる一方、「記録」として繰り返し私たち自身によって反復され、反芻され、見直されて、この一角が全体と繋がっていることを身体にとどめ続ける。
(13.07-10)
智積点
沿岸漁業の船は漁場把握のためにいつも海から山の位置を確認し、地図に線を引いていた。この線分によって空間された認識は、漁師だけが持つものである。
智積のドローイングはまた漁師のようである。智積もまた相対的で、きっかけを必要としている。
自分たちの仕事のためには、地図に線を引いて位置を確認し、そこで描かれる空間を常に認識しておくべきである。
(13.07-11)
複数智積
私たちは、第三者の持つ智積の重要性に気付かされた。
本来自分の「智」として積もるはずの智積は、しばしばいろいろな要因によって自身の智積点から外れていく。
しかし、それを紐帯単位で拾遺していくことができれば、浮遊した「智」は第三者の智積となる。
(13.09-03)
智積集積の方法
例えばゼンマイを採りに山へ入ったとしても、キノコやワラビやタケノコといった山菜もその場で偶然見つけることはあるだろう。
気軽に山に入る「気分」は智積拾遺にとっても侮れないものである。
旅はそれを実現させる。
(13.11-01)
紐帯全体図
特定の集団やネットワーク単位のYOSUGAを紐帯と考える。
(13.07-01)
紐帯の結び目
ルールや空間、寄す処のような多人数で生み出される様々な「づくり」は、結び目(節)として、揺らぎを伴いながら、実態は変形し続けながら、漸近線に沿って次第に形作られていく。
(13.07-02)
紐解図
結び目の紐解は、外から内へと通じる門となる。
それは、一度「外れて」しまった人を歓待によって再び迎え入れる行為としての「癒し」としても表現できる。
(13.07-03)
紐帯の種類
特定の集団が集団として存在する中で看られる紐帯は、結び目の数やその関係性、あるいは結び目の強弱などの多様性がある。
この紐帯のオリジナルデザインは、フラクタルのような広がりを見せたり、それぞれが混ざり合って複雑な表情を見せたりする。
私たちは、感覚的にしかこのデザインを捉えることができない。それは、無意識下に存在する紐帯や、人間以外の土地や時代をも対象にしていることにも繋がる。
(13.08-01)
結び目の複雑さと強さ
紐帯の複雑さとその結合力は、まるで仏教における仏法僧のようにグラデーションを持つ。
(13.07-05)
繁盛の結び目とその伝播
自分に回ってきた結び目のエネルギーは、次の人へと継ぎ渡すことにする。
広場の賑わいは、市場の潤いは、紐帯の繁盛はその伝播の連続性に過ぎない。
道祖神盗みとは、信州の山あいに残るひとつの繁盛の物語なのである。
(13.09-01)
紐帯言語
造語は、撚糸によって紐帯が結ばれ維持される大切な身体表現である。抽象度を下げた独特なニュアンスや特定の寄す処内に響き渡る造語は、似たような意味をもつ一般的な言葉よりも、拠り処として懐にしまい込むことができる。
(13.07-09)
紐帯の遮断1
個人の意識思想の外で作られる「常識」「倫理観」のようなひとつひとつの結び目(紐帯)。それは紐解く云々の問題ではない。余裕を持って知っておくこと、逃げて構わないし逃げ道はあるということ、それに対する正義はないということ、むやみに爆破する必要はないということ。余裕を持って振る舞ればよいのである。
(13.07-04)
紐帯の遮断2
紐帯の遮断では、無名性・仲介・枝分かれのようなアメーバ的な術を用いて、その紐帯の風と土を保つ。
(13.07-06)
紐帯の階層
私たちの生活を取り巻く千万無量の紐帯。
設定される優先順位や階層の付加について。
(13.12-02)
寄す処外
「ここ」から「あそこ」へと移動する:身体を動かすこと、に注意深く目を向ける必要がある。
移動によって現れてくる景観や土地、風の流れを「風土」として意識していく。
そこには明確な”用途”や”目的”は見えないが、それらがなくとも多くの人が自らの身体を往来させる場所の存在を見落としてはならない。
(13.08-02)
寄す処内人が寄す処外の公共に作品や場を設ける
ヴァナキュラー的で匿名性・滅私性の強い場やそこに設置する造形。私たちがそれについて意識する際には、何もない木の下に季節の木々を見るために老人がふわっと椅子を置く感覚を強く持っておきたい。
(13.08-03)
<寄す処道具>道具(トーテム)
ヒエロファニーは、それ自身の意味よりもむしろ、その周囲の土地や環境、歴史の存在に気付かせてくれる。
人々が集まってくる場所には、意味よりも「印」自体がメルクマールとなることがしばしばある。
回向柱に触れた人だけが感じるような「智積」をヒエロファニーとして顕在化することは、私たちの重要な仕事のひとつと捉えたい。
(13.08-04)
トーテムの作り方
トーテムは才能によって作られる。
木や石や川や鉱物や人や社会に宿っている才。
それを黙々と拾遺していく。
解釈していく。理解していく。
そしてそれを能く引き出す。再構築する。
学問とは、才能の実践である。
(13.11-02)
トーテムの構成
未来に直面したときのことを思って、私たちは意匠を形作る。
未来は、時間軸上にあるものとは限らない。
次に目の前にやってくる風景して。
(14.03-03)
トーテムの素地と柄の関係
下地にはすでに縁が点在している
それは星のように
最適を探しながら柄を描くこと
それは星座を作る作業のよう
真っ白いキャンパスに柄を描くのとは違う
そうやって作られたトーテムは
素地と柄と場所の関係性の中で屹立する
(14.05-01)
トーテムの素地の法則
腑に落ちる
しっくりとした気持ちがはらわたにまで落ちたとき
柄は完成し 素地は自らを自覚する
(14.05-02)
トーテムの素地(シニフィエ)
炭素が有機物や無機物をぐるぐる循環するように
トーテムもまた柄が醸し出すシニフィエの変化とともにイメージを変化させる
(14.05-03)
共作のトーテム
色は混ざり合い
細部は著しく干渉しあう
境界は曖昧になり 偶然と必然は同一化する
異人は迎い入れられ、あるいは虐待される
(14.04-01)
トーテムの造形(閉塞)
造形表現において設定するルールは、やがてトーテムを造形する
「文脈づけ」というこの法律は、ときに造形に陳腐さや閉塞感を与える
文脈づけと体感
主客を交代させ続けることに可能性を見ている
(14.09-01)
トーテムの干渉(地上での干渉)1
トーテムは干渉し合い、地上で新たなトーテムを育む。
紐帯を伴いながら。
(14.03-01)
トーテムの干渉(地上での干渉)2
紐帯は衛星として、トーテムが作る空間を浮遊する。
衛星はぶつかりあい、ときにはプラズマを発する。
そのプラズマは惑星にもまた届く。
(14.03-02)
腰掛けと道具
腰掛けは公共をつくる
腰掛けた人は風景がみえる
腰掛けた人のまわりに人が集まる
大木の下の一脚の椅子や野原にふくらんだ大きな石は、ときに市民会館よりも遙かに何でも出来る場所を提供する。
(13.09-02)
流通
同朋衆が指揮した紐帯。
紐帯ではトーテムや腰掛が配置され風景の見せ方が示される。
流通??紐帯に絡みつく紐の軌跡は意図的にかつ時に想像を超える。
(13.12-01)
トーテムによる伝播(地層)
トーテムのある震源地
震源地からは、自然に、その内外に、薄い地層が広がっていく
それは人と人との関係性の中にいることを自覚させる
それは、経典の伝える方法を記す流通分という
思想とは異位相にいる
芸術家Jo Ferlyは、「自分の一日を捧げる」パフォーマンスをする
パフォーマンスという初動部分以外に手を加えない
伝播は、自らの意思からは離れた部分で起こるものとして捉える
(14.07-01)
地中交渉以前のトーテム
私たちの表現と、歴史的な要素を持つ対象、というふたつのトーテム。
両者の過去はともに動きようのない事実として固形化し、地中に眠り続けている。
時の経過は、地中に少しずつ「過去」を蓄積していく。
それにしたがって、地中で背を伸ばす両者は、双方の関係性を持つ余地を大きくしていく。
(14.02-01)
トーテムの地中交渉
私たちは、地中で関係性を構築する。二つのトーテムは地中で交わり、その関係性の中で三つ目のトーテムを彫刻する。三つ目のトーテムは、地中から育まれる。
新たに作られたこのトーテムを、両者との関係性を持つ寄す処の外にいる人たちが眺める。
三つ目のトーテムは、歴史軸の歪み(古今の区別の曖昧さ)や、文化財序列の崩壊(貴重なものとありふれたものの区別の曖昧さ)を引き起こす。
三つ目のトーテムは、鑑賞者の無意識の中で作られてきた「現在」や「過去」を麻痺させ、未来をニュートラルに考える機会を生み出す。
この「麻痺」の効果の点において、現在の関係だけ構築する、つまり地上だけに建つトーテムとは全く異なる。
(14.02-02)